ケの日常を大切に

“ハレとケ”という言葉が使われなくなって久しいですが、とても便利な概念なので個人的には多用しています。

“ハレ”は”晴れ着”や”晴れ舞台”といった言葉で今も使われることもありますが、”ケ”の方はめっきり使われなくなりました。

“晴れ着”というのが特別な日に着る服装であるのに対し、普段着ている服はかつては”ケ着”と言われていたそうです。

要するに”ハレ”は普段とは違う特別な日で、それ以外の日常は”ケ”という言葉で表していたようです。

一昔前まで、大多数の人は日々の暮らしを続けるために、大変な努力を必要としました。

自分達で農作物や日用品を作成したり、火を起こしたり、水を汲んできたりと現在では貨幣と交換できるようなモノやコトをほとんど自前で用意していました。

また、季節の移り変わりとともに労働の種類も変わり、百姓(百の姓、要するにたくさんの仕事という意)という言葉が表すように、一人でいくつもの仕事をこなすのが当たり前でした。

こうした日々の仕事とそれらを支える”まごつき仕事”(例えば田植えの後に農具を洗ったりといった仕事の準備、片付けなど全般)と呼ばれるものと向き合いながら暮らしていました。

ですので人間の日々の暮らしでは”ケ”の維持が基本となります。

しかしながらずっとこうした生活を続けていると段々と疲れてきて”ケ”を維持するための力が枯れてくることになります。

これが”ケガレ”(気枯れ)です。そしてこの”ケガレ”を回復するための場が”ハレ”でした。

昔の生活でいうと、祭りなどの時折訪れる非日常の場が”ハレ”の役割を果たし、そこには枯れてしまった気を取り戻すためのイベントと言う意味合いがあった訳です。

祭りなどの”ハレ”の場でしっかりと充電してまた日々の”ケ”の暮らしに戻っていく、と言うサイクルを血縁や地縁などの繋がりを軸に定期的に繰り返していました。


現在は日々暮らすために火を起こしたり、水を汲みに行ったりする必要はありません。

その分自由に使える時間が増えました(貨幣を稼ぐために費やすべき時間は増えてるので一概に自由な時間が増えたとは言えませんが…)。

こうなってくると単調な日常を過ごすことに飽きが生じやすくなってしまいます。

その結果、刺激を求めて非日常的なものを追いかけてしまうようになるのはある意味当然のことかもしれません。

そして経済を回すためには消費を喚起する必要がありますので、益々非日常的な刺激を追いかけてしまうのが世の中の構造になっていると言う側面もあるでしょう。不必要な消費を煽るような広告もたくさんあります。

しかしながら立ち止まって考えてみると、毎朝目が覚めて、健康で、仕事に行けて、家族と過ごせて、といったごく当たり前のことこそが一番価値があることに気がつくのではないでしょうか。

当たり前すぎて見えなくなってしまいがちですが、こうした”ケ”の日々をいかに快適に過ごせるか?ということこそが私たちの人生においては一番重要なのだと思います。

例えば時折出かける海外旅行で非日常を経験して楽しめるのも、それが滅多に機会がない”ハレ”の場だからこそです。毎月のように出かけていては”ハレ”の機会にもなり得ないでしょう。

時折できる非日常な体験だからこそ、新鮮味を感じ、そこから多くのことを学べます。これが日常の一環に組み込まれてしまうと学べるものも少なくなります。体験は多くすれば良いというほど単純ではありません。脳で処理できる情報量がオーバーしてしまうと結局は何も残りません。

適切なタイミングで、適切な刺激が入ることで初めて”ケガレ”の解消につながり、明日への活力に変換できる訳です。

粛々と”ケ”の日常を過ごしているからこそ”ハレ”の場も意味をなしてきます。無意味に”ハレ”を求めても”ケガレ”を解消するどころか益々消耗してしまうだけです。

淡々と過ごす”ケ”の日常があるからこそ、時折訪れる”ハレ”の場に意味が付加されます。

派手な物事ばかりに意識が向きがちですが、ついつい忘れがちな、さりげない日常の価値に時折目を向けることも大切だと思います。